プロフィール

Career

コーアクティブ®・コーチ
植田 裕子Yuko Ueda

1963年 東京生まれ

1986年 早稲田大学第一文学部英文科卒業後、味の素株式会社入社
油脂事業部にて原料購買、事業部採算、秘書業務などを担当

2003年 社内研修でコーアクティブ・コーチング®に出会い衝撃を受け、その日の晩に基礎コースに申し込む

2004年 味の素を退職

2005年 CTI認定 プロフェッショナル・コーアクティブ・コーチ(CPCC®)取得*
プロコーチとして独立

2007年 CTIジャパンのトレーナーとしてコーチ養成に携わり、現在に至る

2008年 パートナーの赴任に伴い、2011年までシンガポールに住居を移す

2014年 TLC(The Leadership Circle®)認定プラクティショナー(TLCCP)取得**

2014年 国際コーチ連盟認定PCC(Professional Certified Coach)取得

【座右の銘】
大好きな小学校の恩師にもらった言葉「微笑みに人集まる」
厳しい陸上の練習で実感した「苦あれば楽あり」
コーチングの人間観とも近い「愛は人の自然な成長を促す」

植田裕子プロフィール写真

*コーアクティブ、コーアクティブ・コーチング、コーアクティブ・リーダーシップ、CPCCは、株式会社ウエイクアップCTIジャパンの登録商標です。

**TLC(The Leadership Circle)は、ザ・リーダーシップ・サークル(The Leadership Circle)の登録商標です。詳しくはTLCジャパンのホームページをご覧ください。

Life story

恩師との出会い<小学校>

小学校5年生の時に父が千葉の津田沼にマンションを購入し、大田区の山王にある社宅を出て、転校しました。津田沼小学校は体育の奨励校で、朝の余暇利用といって6時からみんなが運動しているような学校でした。山王小学校から転校してきた私には、一日中体操服で過ごしている生徒がみんな山猿みたいに見えました。でも、それは拒否反応ではなくワクワクで、野生が呼び覚まされる感覚でした。それからは私も毎朝6時には小学校に行き、マットで「バック転」を練習したり、鉄棒で「け上がり」や「大ぶりともえ」を練習していました。そして、担任の田澤先生は朝6時からマット運動の補助をしてくれていたのです。そのために宿直室に泊まり込んでいたこともしょっちゅうでした。

小学生時代の写真
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生徒との強い絆

田澤先生と生徒の関わりは転校生の私には衝撃でした。5年生の5月に転校して、1ヶ月も経たない頃、一人の男の子が田澤先生に叱られ、頬を激しくたたかれて衝撃で体が飛びました。そして「けえれ(かえれ)!」と大声で怒鳴ったのです。私はきゅっと身をすくめて、早くことがおさまることを願っていました。すると男の子は「いやです!」と大声で返答したのです。先生は「いいか、いやかなんか聞いてねぇ!けえれ(かえれ)!」とさらに怒鳴るのですが、男の子は「いやです!」と一歩も引かないのです。なぜなのか、何が起きているのか、その時はまったく理解出来ませんでした。早くこの時間が終わってほしいと願っていた私には地獄の時間でした。でも少し時間が経ち、だんだんクラスの雰囲気がわかってくると、田澤先生と生徒との間にある「ものすごく強い絆」というものを感じて、羨ましく思ったことも覚えています。

育まれた自己肯定感

その後すぐに私も転校生という配慮は全くなく、他のみんなと同じように叱られるようになりました。「何やってんだ!」と大声で怒鳴られたり、テストの点が悪いと「最低だ!」「でれすけ(だらしない奴というニュアンス)!」と走り書きがありました。
でも、私を含めクラスメイトはみんな田澤先生のことが大好きでした。なぜなら、そんな風に思い切り怒る田澤先生でしたが、褒める時も大きな声で「ゆうこ、そうだ!」「ゆうこ、いいぞ!」とくしゃくしゃの笑顔で褒めてくれたのです。「親以外でこんなに私を愛してくれる存在がいる」このことは言葉にならないところで、私の自己肯定感を育んでくれたと思っています。

練習は裏切らない<中学部活>

小学校の陸上の市内大会に出て、走り高跳びで2位になった私は、地元の公立中学に進むと、陸上部の顧問から1位になった友達と共に勧誘されました。小学校でやっていた体操が楽しかったので体操部に入るつもりでいたのですが、「どうせやるのなら強い部活で自分の限界を試してみたい。」そんな思いもあった私は陸上部に入りました。顧問の溝口先生は40歳くらいの男性で、指導にも熱が入っていました。顧問の言葉で印象に残っているのは「陸上は練習が楽しくない。だからこそお前たちには勝つ喜びを教えてやる。」という言葉でした。ただ1年生の時は勝つことへの強いモチベーションもなく、ただ練習をこなしていて、辛い冬期練習もどうやってサボるか、そんなことばかり考えていました。

中学部活の写真
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同じ失敗は繰り返すまい

2年生の春になり陸上の試合が始まり、同級生がどんどん入賞していく中で、走高跳を専門としている私は記録がほとんど伸びず、入賞も出来ませんでした。焦る気持ちと悔しい思いを抱えて悶々としていました。そして、その原因は冬期練習をサボったことだというのは自分でも痛いほどわかっていました。
「同じ失敗は繰り返すまい!」と2年生の冬期練習は真面目にやりました。持久走も筋トレも、大嫌いでしたが、手を抜かずに全力でやりました。「最後のシーズン、もうあんな思いはしたくない!」その想いがずっと私を支えていました。

苦あれば楽あり

3年生になりシーズンが始まると、着々と記録が伸び、結果もついてきました。気づけば県大会は優勝し、全国大会の標準記録まで突破出来ていました。全国大会は走高跳と3種競技(100m、走高跳、砲丸投)の2種目で出場することが出来ました。全国大会は国立競技場です。専門の走高跳は試合が初日で、緊張し過ぎて全然跳べずに終わりました。その日は落ち込みましたが、翌日オマケのつもりで出場した3種競技は、欲もなくリラックスして1種目ずつ競技に集中することが出来て、終わってみたら3位入賞を果たしていました。
「練習は裏切らない」「苦あれば楽あり」という諺は、この時、私の体の細胞にDNAとして刻み込まれたのだと思います。

レオナルドダビン子<高校時代>

高校は、千葉県の公立高校に進みました。顧問の勧めるところになんとなく進学してしまいました。当然のごとく中学の陸上部の顧問とその高校の陸上部の先生は通じていました。入学式の翌日、早速校長室に呼ばれ、中学時代の陸上の成績をほめられ、「(我が校のために)ぜひ高校でも続けて欲しい。」と言われ、入学したての私には「NO」という選択肢はなく、陸上部に入ることが決定したのでした。本当は高校では陸上ではなく練習が楽しそうなテニス部か何かに入りたいと思っていたのですが、そんな夢は一瞬で打ち砕かれ、また練習のつらい陸上の日々になりました。そして、身長の高くない私は、走高跳に限界を感じていました。努力で乗り越えられない限界というものを体感したのでした。

高校生時代の写真
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自分を出してはいけない

結局、高校では関東大会に1度行けただけで、入賞も出来ず、部活動を引退しました。
同時に、高校は勉強面では安全圏の学校だったので、あまり勉強しなくても学年10位から落ちることはなく、陸上でも表彰されたりすると、なんでも出来るという意味の揶揄で「レオナルドダビン子」と言われたりして、すごく嫌でした。のびのびと自分を出してはいけないんだ、と無意識に思っていた気がします。

自分で決めないと後悔する

この経験から「自分で決めないと後悔する」ということを学びました。「顧問に言われて高校を決めたこと」「校長先生に言われて陸上を続けたこと」など自分で納得して決めていないことは、うまくいかなかった時に誰かを責めたくなるし、それをしても自分は満たされないんだ、ということです。
これが言葉になったのは大人になってからですが、大事な学びはほろ苦い思い出とセットで思い出します。

羽を広げた<大学~味の素時代>

同時によいこともありました。高校に早稲田大学の指定校推薦の枠が、私の代から出来たのです。私より成績のよい人もいたのですが、体が弱く4年間通える自信がないと辞退されたそうで、「お前なら大丈夫!」と先生方から体力面での太鼓判を押され(苦笑)、文学部に入学しました。学生数が多いというのもあると思いますが、大学では本当にいろんな人たちに出会いました。地方からきている下宿生も多く、貧乏自慢するような学生もいれば、一件家を借りていて料理を作ってくれる人まで雇っている学生もいて、私が今まで知っている世界を大きく超えていました。高校時代は「自分をそのまま出してはいけない」と縮こまっていたところもあったのが、本当に馬鹿らしいこと、ちっぽけなことと思えて、広い世界、多様な世界観に放たれた感覚でした。

大学時代の写真
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1対1の面接7回 味の素からの内定

中学・高校と陸上馬鹿だったので、大学生活ではいろんなことをしようと決めていて、サークルにも入り、バイトもたくさんし、旅行もいく、そんな花の女子大生(古い!)でした。

4年生になり就職活動を始めましたが、あの頃はまだ楽しむ余裕がありました。メーカーを中心に20社くらいOG訪問して、社会を垣間見させてもらいました。そして、面接が何社か平行して進む中、味の素から内定が出ました。もちろん私もとても行きたかったですが、1対1の面接が7回あって内定が出たので、こんなにいろんな人が見てくれてOKと言ってくれたのだから、大丈夫!と安心出来たのを覚えています。

すべてが新しく面白い

味の素では油脂事業部に配属されました。最初は「サラダ油を作っている部、、、なんて地味なんでしょう」とがっかりしましたが、仕事を始めてみたら、すべてのことが新しくて面白く、まわりの人々にも恵まれて充実した日々でした。
また雑誌「Hanako」が創刊されるなど、バブルな時代到来で、同期も鼻息荒いメンバーが多かったこともあり、気の合うメンバーで集まっては、新しい事業を会社に提案して、ひと花咲かそうと企み、あーだこーだと語っていました。結局、新しい事業の提案は実現しませんでしたが、入社当初の無邪気な時をともに過ごした同期とは今でもゆるく繋がっています。

仕事では事務職ながら、4年目には上司の計らいで原料の買い付けを担当させてもらいました。商社を通して、シカゴの穀物相場で指値をして大豆や菜種を買いつけ、東京為替市場で為替予約をして輸入する仕事でした。億単位の売買をして、商社マンから見たら私は赤子みたいなものだったと思うのですが、紳士で優しい方ばかりだったので、丁寧に教えてもらい、相場を読む、為替を読む面白さ・難しさを経験しながらも充実していました。

やりがいMAXでの妊娠

秋には米国の穀倉地帯への現地視察の出張の話も出て、一番充実していた時、妊娠していることがわかりました。「なんで今なの!?せめてあと半年待って欲しかった。」と嬉しい知らせも最初は受け入れられない気持ちとの葛藤がありました。でも徐々にお腹が大きくなってくると、気持ちも新しい命を受け入れる準備が出来て、仕事を引きつぎました。そして出来たばかりの1年間の育児休職制度を利用しました。
育休生活は楽しかったです。杉並にある主人の会社の社宅で、同じ学年の子どもが10人もいるベビーラッシュだったこともあり、子どもを通して新たなつながりも出来ました。お隣のママは薬剤師でアトピーの長男の様子を見て、ステロイド剤の適切な使い方などアドバイスをくれたり、雨の日は誰かの家で子どもたちを一緒に遊ばせておしゃべりするなど、育休ライフを満喫しました。

子育て時代の写真
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楽しい子育て募る不満

そして長男の1歳の誕生日から職場に復帰しました。育児短時間勤務を取らせてもらったものの毎日目の回る忙しさで、子どもの寝かしつけと共に寝落ちしてしまい、夜中に目を覚ましてやり残した家事を片付けるような日々でした。子どもは可愛いし、社宅のママ同士の助け合いもあり、子育ては楽しかったのですが、心の中では主人が家事・育児を手伝わないことに密かに不満を募らせていた時期でもありました。
そんな時、主人と「もう一人子ども欲しいよね。」と話をしていたのですが、その内心はお互い思っていたことが違ったのです。主人は私に仕事を辞めてほしいと思っていて「さすがにもう一人子どもが出来たら、会社を辞めると言うだろう。」という腹積もりでいました。私は「さすがにもう一人子どもが出来たら、ダンナも子育てを手伝うようになるだろう。」という思惑がありました。表面上は意見が一致しているように見えたまま1998年やっと二人目を授かりました。

離婚の危機

そして、1999年2月に次男が生まれて、また1年間の育児休職に入りました。この間はまだ平穏な時期でした。でも、2000年5月に育児休職明けて仕事に復帰すると、お互いが腹の底で思っていたことが明らかになり、表面化してきました。
主人「えっ?まだ仕事続けるの?」
私「うそ!?子どもが二人になっても家事・育児に協力しないの?」
平行線の溝は深まるばかりで、会話もどんどん減り、「離婚」という言葉も頭をかすめる時期でした。

コーチングとの出会い

そんな主人との冷戦時代が続いていた2003年、味の素の「女性向け組合員研修」として定時後2時間のコーチングワークショップがありました。その誘いのビラの最初の1行が「あなたが望む通りの人生を生きられるとしたら、10年後どうしていたいですか?」という問いでした。衝撃的でした!そんなこと考えたこともなかった。日々積み重ねて仕事していく先に10年後の未来はあるものと漠然と思っていた私にとっては、「未来は自分で選択できる」ということに気づかされた瞬間でした。その問に対する答えはすぐには見つからなかったのですが、こんな衝撃的なことに気づかせてくれたコーチングに興味津々で、まずは基礎コースに行ってみることにしました。

コーチングと出会った頃の写真
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私がやっていきたいのはコレだ!

基礎コースは2日半のコースなので、金曜日の午後2時からスタートでした。午後半休をとり、会場に行ってみると机もなく車座、知らない者同士で話すことも少なく緊張感のある場でした。会社派遣で来ている男性参加者も多くて、ナナメな受講態度の方も何人かいて居心地が悪い、そんな感覚を思い出します。それが2日半を経ると、みんなが心を開き、会社派遣の人たちも素直な子どものように相手の話に「うん、うん」と頷くようになっていました。まるで魔法にでもかかったようで、何が起きたのかが不思議で、その秘密を知りたくてその先のコースに進みました。
そうして、コーアクティブ・コーチング®を学び進めていく中で徐々にミイラ取りがミイラになるがごとく「私がこの先の人生でやっていきたいのはコレだ!」という確信に近いものを感じていました。

二人の子どもを育てながらの慌ただしい日々、仕事も時間の制限があり、いつも中途半端な感じでまわりに申し訳ない気持ちを抱えていました。時間に縛られて生活している感じに耐えられなくなってきていた時期だったこともあり、「子どもとゆっくり向き合う時間の取れる生活をしたい!」というのと「コーチになってみたい!」というのがバチッとはまった瞬間でした。

両手ばなしのバンジージャンプ

コーチングのワークショップで会社を辞める宣言をして、翌朝一番で上司に伝え、そこから半年後、2004年7月仕事のキリのいいタイミングで退職しました。
コーチになりたいと思い会社を辞めたものの、まだコーチングの資格コース(現在の上級コース*1)は半年待ちの状況でした。まずは18年の会社勤めから解放されて、平日の日中を自由に使えることが何より嬉しいことでした。最初の頃は、平日のお昼にショッピングすることもなんだか悪いことしているみたいな感覚があったことを覚えています。半年間で会いたいと思っていた人に連絡し、自分から会いに行きました。
この時の私の感覚は「両手ばなしのバンジージャンプ」でした。やりたいことはあったものの、まだ海のものとも山のものともつかない中、やりたい気持ちだけでスタートを切った感覚です。
私は本来慎重派なので(自称ですが)、普通なら次のことが決まってから、前のことを辞めることが多かったと思います。「うんてい」のように次を掴んでから、前を離す、そんな風に歩んできた感じがします。でも、この時は「両手ばなしのバンジージャンプ」状態で、何が掴めるかはまったく予想出来ない状態でした。でもこの時のわくわく感、ドキドキ感は体が覚えているし、この方向でいいんだよと体感覚は教えてくれていました。実はこの感覚がとっても大事なんだと、この経験が体に刻ませてくれました。

*1. コーアクティブ・コーチング®・上級コース

道が拓けた瞬間

2005年にコーアクティブ・コーチング®の資格コースを受講中、2006年1月から日本で初めて開催する「リーダーシップ・プログラム*2」の説明会の知らせが届きました。まだ下の子は年長と小さかったので、5泊6日などの合宿プログラムに4回も参加するのは無理だと思っていましたが、好奇心から説明会は行ってみることにしました。お台場の説明会の会場は、コーアクティブ・リーダーシップ®・プログラムの日本初開催ということで、コミュニティの人たちが興味津々で100名くらい集まっていたと思います。
一通り説明が終わって質疑応答になった時に、一人が質問しました。「このプログラムで体験することは、他のどこで体験出来ますか?」(という趣旨だったと思う)という問いに、プログラム参加者の人が来ていて答えた内容が衝撃でした。

リーダーシップ・プログラムに参加した頃の写真
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明日の命をも知れないところ

「他のどんな場所で、、、(しばし考え込む)、、、そうだなぁ、戦場のような明日の命をも知れないところに行ったら、同じ経験が出来ると思います。」と答えたのです。
それを聞き、びっくりしながらも「私はたぶん人生で自ら戦場に行くことはないだろう。でも、戦場のような明日の命をも知れないところに行った時に、自分は何を選択し、何を手放すのか、その自分に出会ってみたい。」と激しく心揺さぶられたのです。

まるでモーゼの十戒

帰宅して、夕食時にその説明会でのことを熱く語り「行ってみたいんだよね~」と素直につぶやいたら、小6の長男が「行けばいいじゃない。チャンスなんでしょう?」と言ったのです。本当に予想だにしていない一言。それに続いて、よく訳のわかっていない年長の次男も「ちゃんちゅなんでしょう?」と言ったのです。そうしたら、主人が「子どもたちが行ってもいいと言うなら、オレは構わないよ。」と言ったです。この時はまさにモーゼの十戒のように目の前に道が拓けた感じがしました。

そして申し込みをして、無事参加することが出来たリーダーシップ・プログラム、4回の合宿なのですが、1回目の合宿で、私は既に元を取った、こういうことだったのね、という経験をしました。

*2. コーアクティブ・リーダーシップ®・プログラム
さらに詳しく知りたい方はこちら

ピンチはチャンス

2007年10月にCTIジャパンのワークショップ・リーダーとしてデビューしたのもつかの間、2008年4月に主人がシンガポール赴任という青天の霹靂のような異動がありました。
「やっと本当にやりたい事に出会ったのに。。。なんで今さら」衝撃でその晩は大泣きしました。なぜ大泣きしたのか、それは私の中で「シンガポールに一緒に行かないといけない。子ども達のためには海外経験をさせてあげるべきだ。そのチャンスがあるのに、母親の我がままでないものにしてはいけない。」という声が、ずっと流れていたからです。私のワークショップ・リーダーをやりたいというのは、私の我がままだと思ったのです。誰かに責められたでもなく、ましてや言われた訳でもないのに、一人でそう思っておいおい泣いていました。

シンガポールライフの写真
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やっと出てきた本音

泣きはらした目でリーダー・ミーティングに行き事情を話したら、一人のリーダーが「ゆうちゃん、ゆっくり話しよう」と言ってくれて、時間をとってくれました。

そこで、話をしても私の思考回路は同じです。
コーチ「ゆうちゃんはどうしたいの?」
私「行くべきだと思うんだよね。」
コーチ「どうすべきかじゃなくて、ゆうちゃんはどうしたいのって聞いてるの?」
私「うん、行くしかないと思うんだよね。」(←本気です。クライアントとしてはからきしダメ)

「ゆうちゃんは、どうしたいの?」胸ぐら掴まれて「私、、、、私は、、、行きたくないっ。」やっと口から出てきました。
そうしたら、コーチが「ゆうちゃん、そこからだよ。そこからご主人と話してごらん。」と言ってくれたのでした。

そんな発想全く無かった!

その日、子どもが寝静まってから主人に「私ね、本当はシンガポールに行きたくないんだ。やっと本当にやりたい仕事(ワークショップ・リーダー)に出会ったから手放したくないの。」とやっと言うことが出来ました。
すると、主人からは「だったら、シンガポールから通えばいいじゃない。」という意外な言葉が!
えーーーー!?それってありなの?そんな発想まったくなかった!自分で辞めるしかないって決めつけて、一人で悲劇のヒロインになっていたけど、そんな展開ありなの?と耳を疑いながら、想定外な人生を味わっていました。

結局、3年4か月の間に日本とシンガポールの間を44往復しました。シンガポールで家を空けるために、住み込みでメイドを雇うことも「子どもたちも英語の勉強になるんじゃない?」と主人が言ってくれて実現し、最高のメイドとも出会うことが出来ました。

コーチングはライフスキル

2012年に帰国して東京に住み、フライトの縛りなく自由に活動できる幸せを実感しています。2014年の早春、長男が就職活動をしていました。(当時は4月に企業の内定が出る制度でした。)毎日のように企業説明会に行ったり、OB訪問をしたりして、最初は楽しんでいましたが、慣れないスーツと革靴でアポイントを取り緊張して先輩と会い、帰ってきては次のエントリーシートを書かなくてはいけない日々はしんどそうでもありました。その頃は、帰宅するとそのまま私の部屋に来て、荷物を置き、ベッドに腰かけ、その日あったことを話しました。嬉しかったことも失敗して凹んだこともひとしきり話すのを聞いていました。「それで?」「本当は何て言いたかったの?」と聴くだけで、コーチングをしている訳ではありません。ただただ話を聞いていました。それでも長男はひとしきり話を終えると、「なんかエントリーシート書けそうな気がしてきた。」と立ち上がり部屋を出ていきました。

植田裕子の写真
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人が本来持っている知恵

そんな時に「コーチングを学んでいてよかったな。」と素直に思いました。コーチングを学んでいなかったら、私はあれこれアドバイスしたり、心配して手を出していたりしたと思います。

コーアクティブ・コーチング®に出会って14年が経ち、プロのコーチとして独立してから10年が経ちました。
10年経ってもコーアクティブ・コーチング®の魅力はまったく色褪せることはなく、さらなる探求の旅は続いています。どんなにコーチングセッションを重ねても、コーチングをする相手は世の中にたった一人しかいない生身の人間だからこそ、同じことは二度となく、聴きたい問いはその瞬間にしか生まれてこないし、コーチとクライアントの二人の間でしか創れないシナジーがあると信じています。コーアクティブ・コーチング®は、「人が人で磨きあう」人が本来持っている知恵だと思います。

コーチをつける選択肢

私には願いがあります。
「世の中のすべての人にコーチが必要だ!」とは思いません。でも世の中の人みんなにコーチの存在を知っていて欲しいのです。
そして、人生で苦しい時、岐路に立たされた時、「自分にコーチをつける」という選択肢を持っていて欲しいのです。
誰かの期待に応えて生きるのではなく、この道は違っていると思いつつ降りる勇気がないままに走り続けるのでもなく、自分の心の声を聞いて、その声から生きていく、そんな人生を生きて欲しいと願っています。コーチングがちょっとでもあなたにとって身近なものに感じられたら嬉しいです。